不定期連載 OSD事務局マネの『長い自己紹介』第8回 | 一般社団法人OSDよりそいネットワーク

不定期連載 OSD事務局マネの『長い自己紹介』第8回

第8回 調子に乗った話

 

昭和42年生まれの男は全員読んでる(はずの)漫画。内容には触れない。

 めでたくドラえもんの第2巻を買ってもらった後も(第7回参照)、父はときどきドラえもんを買ってきてくれた。ある日の朝、ダメ元で「トイレット博士買ってきて」と頼んでみた。そしたらなんと夕方買って帰ってきた。多分中を少し読んだのだろう、「こんなもの買わすな」と言って本の角でコツンとやられた。こちらも調子に乗っている自覚はあったし、そんなに怒られている感じもなく、よい思い出として記憶に残っている。

 俺が幼稚園の年長組に上がる年に父は校長になるのだが、この時はまだ父の職業を知らなかった。父は父であり、父の仕事に興味はなかった。小学1年の入学式の時に、校長先生の存在を初めて知るのだが、俺の父とは結びつかず、「お父さんもこういうあいさつしてんのか?」と、ちょっと想像してみたがイメージできなかった。

 これまで引きこもりに関する取材をいくつか受けてきたが、父のことを「大正13年生まれの教員」と紹介すると、条件反射的に「厳格な父親に育てられてお兄さんは引きこもってしまった・・・」という話を作りたがるマスコミ関係者が多く、辟易としていた。

 俺が長い間引きこもりの兄について口外できなかったのは、話すことによって晒される偏見の目、貼られるレッテルに耐える能力がなかったからだが、兄の話をするのが平気になってからは、安易にラベリングしてくる人に対しては「バカ」としか思わなくなったので、今はとても楽だ。

 振り返ってみると、昭和34年生まれの兄と昭和42年生まれの弟は共に “ゆとり教育” のようなものを受けていたのではないかと思う。詳細は徐々に書いていくつもりだが、少なくとも弟の俺は父から「勉強しろ」などとうるさく言われたことはない。教育的指導のようなものも受けたことはない。高校受験前や大学受験前に多少何か言われたような気もするが、プレッシャーのかかるようなことは言われなかった。

 兄も弟も何かを禁止されたことはない。好きなこと、興味のあることを気持のおもむくままにやらせてもらえたと思う。兄は中学生の頃トランジスタラジオ作りに熱中していた。弟の俺はよくスキーに連れて行ってもらっていた。中学2年の冬に苗場に連れて行ってもらった時、父は57歳。よく付き合ってくれたと思う。

 それでも兄は長く引きこもり状態になるのだが、父の “教育しない” 教育方針が昭和34年生まれの兄にはまだ通用しなかったのではないかと想像すると、俺の中では辻褄が合う。しかし、すっかり元気になって毎日庭仕事している兄の今の姿が、かつてラジオ作りに熱中していた姿と似ていて、父の教育は間違っていなかったのではないかと、2024年の今は思う。

 思うところあってこのブログを書き始めたのだが、その理由のひとつに父、母、兄の名誉の回復をしたいという思いがある。偏見という敵はなかなかにやっかいなものだが、倒す方法はあると思っている。

過去回はこちらから
第7回「ドラえもんを求めて」
第6回「名ヶ山小学校」
第5回「主な登場人物の紹介」
第4回「母の趣味」
第3回「兄の近況」
第2回「大橋史信さん」
第1回「ごあいさつ」