不定期連載 OSD事務局マネの『長い自己紹介』#17 | 一般社団法人OSDよりそいネットワーク

不定期連載 OSD事務局マネの『長い自己紹介』#17

 第17回 父と兄、父と祖父 その2

 前回のブログで(第16回参照)父と兄が会話をしている風景を見たことがないという話を書いたが、実は父と祖父が会話している風景というものも見たことがない。

 祖父母の家つまり父の実家は俺の実家から車で30分ほどのところにあり、祖父が亡くなる1981年の冬まではお盆と正月によく家族で挨拶に行っていた。なので父と祖父はそこそこ顔を合わせているのだが、俺の記憶のかぎり父と祖父が会話している風景というものを見たことはない。実際はそんなことはないと思うのだが、少なくとも俺は見たことがない。

 これも恥ずかしい話なのだが、俺は父方の祖父母になつかなかった。祖母とは多少コミュニケーションが取れていたが、それは祖母が家に来るたびにおみやげを買ってきてくれたので孫なりに愛想良くしていただけで、“おばあちゃん大好き!”というほどではなかった。

 俺は祖父と会話をした記憶がない。なにしろ祖父になつかなかったので。子どもなりに“俺はかわいくない孫なんだろうな”と思っていたが、自分から祖父に話しかけるということはなかった。俺は父と母が好きであり、その父と祖父の仲が良さそうに見えなかったので、祖父になつこうとしなかった。ただ祖父のことが怖かったわけではなかった。祖父が俺のことをどう思っていたかは知らない。

 今思えばなのだが、祖父から見た俺は“かつて自分が傷つけた子どもの子ども”ということになるので、孫の俺にどう接すればいいかわからなかったのではないかと考えると、俺の中では辻褄が合う。

 後年になって父と祖父の間に何があったか知る機会を得て、そのことと自分の子どもの頃の記憶が結びつくようになった。父と兄には会話がなく、父と祖父にも会話はなく、兄と弟にも会話はなくなってしまい、そういえば祖父と兄が会話している風景も見たことはない。まあ、あんなことがあれば話をしなくなるのも当然かもしれない。

 俺が生まれる前の祖父母と兄が写っている写真が残っているので、兄も幼い頃は祖父母になついていたのではないかと思う。母は幼い兄をよく祖父母の家に連れて行ったようなので、その頃の母と祖父母の関係も良好だったのではないか。ただそれも母が好きでやっていたわけではなく、間野家に嫁いだ身として半ば義務感でやっていたのではとも思う。なので、不意打ちのように祖父母がやって来たことで良好だったはずの関係もあっさりと崩れてしまう。車で30分の距離なので、それなりのお付き合いはしていたが、それも年とともに浅いものになっていった。

 祖父母の実家は昭和19年に特定郵便局になるのだが、なぜその時代に作らなければならなかったのか、確かな記憶で客観的に話せる人も、もういないだろう。

 俺も特定郵便局制度についての詳細な知識があるわけではないのでここでの説明は控えるが、父は7人兄弟の長男でありながら郵便局を継がなかったことにその後の悲劇があったのだと考えると、これもまた俺の中では辻褄が合う。父と祖父の仲が悪かったことをあらわす象徴的な出来事があるのだが、次回以降に書けたら書きたい

過去回はこちらから
第16回「父と兄、父と祖父 その1」
第15回「やればできたのに」
第14回「1974年、春」
第13回「1988年、秋」
第12回「兄にお礼を言われた話」
第11回「兄と写生に出かけた話」
第10回「トランジスタラジオ」
第9回「母の介護と義父の介護」
第8回「調子に乗った話」
第7回「ドラえもんを求めて」
第6回「名ヶ山小学校」
第5回「主な登場人物の紹介」
第4回「母の趣味」
第3回「兄の近況」
第2回「大橋史信さん」
第1回「ごあいさつ」