不定期連載 OSD事務局マネの『長い自己紹介』第16回 | 一般社団法人OSDよりそいネットワーク

不定期連載 OSD事務局マネの『長い自己紹介』第16回

第16回 父と兄、父と祖父 その1

 俺には小・中・高と同じ学校に進学した同級生が何人もいるのだが、俺に8歳上の兄がいることを知っている人はほとんどいない。自分から兄の話をしたことはなく、その理由が小学1年の春から兄と話が出来なくなったからであることは明らかだ(第14回参照)。

 学校に行くと自分の家族の話を何の屈託もなくできる人が時々いたが、正直うらやましく思っていた。

 俺は高校卒業後上京するが、実はそれまでの18年間に父と兄が会話している風景というものを見たことがない。毎日家族4人で食卓を囲むのだが、父と兄が会話している場面に遭遇したことはない。子供ながらにこれは普通ではないと思うので、学校内で自分から家族の話をする気にはなれなかった。そんなことをだれかに話したらすぐに尾ひれがついた噂話になり、何を言われるかわからなかったからだ。どうせみんな他人の恥部を見るのが大好きなのだろうと、この頃すでに思っていた。幼い頃から言えないことを抱えると、猜疑心の強い人間に育つのかもしれない。

 本当に数少ない父と兄の会話で覚えていることがある。季節は初冬。兄は中3で卒業後の進路を決めなければいけない頃。俺は台所のテーブルでプリンを食べていたか牛乳を飲んでいたか。俺の斜め前方に父がいて、俺を見ずに俺の背後にいたと思われる兄に「電気関係が好きなら工業でいいねかて」と、地元の言葉ではっきり話しかけていた。それに対して兄がどう答えたかは覚えていない。この場に母もいたはずだが、母の姿は記憶にない。この時俺は父の姿しか見ていなかった。

 以前にも書いたが(第10回参照)、父は兄の学力と適性をそれなりに把握していて、5教科まんべんなく出来なければいけない普通科の高校ではなく、兄の得意な理数を活かした工業高校に進学すればいいと本当に思っていたような気がする。

 中3になってもラジオ作りに熱中していた兄の姿を見ていれば、そう考えるのも自然かもしれない。ただ父の言い方は、受け取る兄の側からしたら “おまえは学力がないから普通科は無理だ” と言われたようにも聞こえて反発心が生まれたかもしれず、無理して普通科の高校を受験した可能性もある。

 今にして思えば、もうちょっと兄が前向きに考えられるような言い方がなかったのかとも思うが、大正13年生まれの父だから仕方がないかとも思った。

 会話のない父と兄だったので、こんなわずかな会話が記憶に残っていて、今でもよく思い出す。なぜこんなことを覚えているかというと、その後の俺の人格形成に大きく影響を与えているのではないかと思っているからだ。

 会話がなかったのは父と兄だけでなく、父と祖父もそうだったのだが、長くなるのでまた次回。

過去回はこちらから
第15回「やればできたのに」
第14回「1974年、春」
第13回「1988年、秋」
第12回「兄にお礼を言われた話」
第11回「兄と写生に出かけた話」
第10回「トランジスタラジオ」
第9回「母の介護と義父の介護」
第8回「調子に乗った話」
第7回「ドラえもんを求めて」
第6回「名ヶ山小学校」
第5回「主な登場人物の紹介」
第4回「母の趣味」
第3回「兄の近況」
第2回「大橋史信さん」
第1回「ごあいさつ」