第14回 1974年、春
ひきこもりのことについて考える時、兄がひきこもり始めた1988年の秋ではなく(第13回参照)、兄と話ができなくなった50年前までどうしても遡って考えてしまう。
(新婚当時の父と母。昭和32年11月7日、日光にて)
1974年(昭和49年)の春、兄は高校1年、俺は小学1年生になった。兄は第一志望校に落ち、滑り止めで受けた高校に入学する。兄が高校受験に失敗したことを、父と母、そして兄がそれぞれどう思っていたかは知らない。弟の俺は行くところが幼稚園から小学校に変わっただけで、特に気持ちの変化はなかったと思う。家の中も最初の1カ月は春の日差しのように平穏な空気が流れていた。
大型連休中だったか前だったか後だったか、事件と言っていいようなことが起こった。父方の祖父母が家に来た。祖父母の家、つまり父の実家は車で30分ほどのところにあり、祖母はよくおみやげを持って孫の顔を見に来ていたが、祖父はめったに来ることがなかった。その祖父が来た。よりによってこんな時に。祖父母は予告なしで来たのか、いつもは平静な母の様子がちがっていた。
兄は入学直後の学力テストで数学が学年で一番だったらしいのだが、母はその答案用紙を祖父母に見せながら「やればできたのに」と言った。それが何を意味するのか、小学1年になったばかりの俺はまだわからなかったが、母が「やればできたのに」と言ったことだけはよく覚えている。
祖父母は兄の受験の結果を知らずに、たまたまふらりと立ち寄っただけかもしれない。母は母で、兄の受験の結果を知らせていなかった祖父母が連絡もなしに来たことでうろたえたのかもしれない。
その場に祖父母と母、俺の他に父と兄もいたはずなのだが、父と兄がどこにいたのか記憶がない。俺はいつもと様子がちがう母しか見ていなかった。
この日以来、俺は兄のことが怖くなって話ができなくなった。それまではケンカというコミュニケーションもあったのだが、それもなくなった。べつに殴られたりひどいことを言われたわけでもないのだが、弟にとって兄はただただ怖くて近寄りがたい人になった。以降兄とはほとんど口をきくことなく、さらに1988年秋に兄がひきこもりはじめてからは全く言葉を交わすことがなくなった。
こんな経験をしたからか、俺は甥や姪の進路について、本人はもちろん自分からいとこに聞いたことがない。聞くこと自体、人の人生を変えることになってしまうのではないかと考えてしまい、聞くことができなくなっていた。
2024年の今、最低限のコミュニケーションは取れるさほど仲の良くない普通の兄弟に戻れたが、この日の出来事は今でも強烈に記憶に残っていて、おおげさでなくその後の俺の人格形成に大きな影響を与えた、と思う。
このブログを書きながら思い出したが、祖母はその後もよく孫の顔を見に来たが、祖父はこの日を最後に家に来ることはなかった。
とっくに死んだ祖父母に対して、俺は今でも「なんで来たんだ?」という恨みの気持ちがあるのだが、祖父もまた間の悪い時に行ってしまったと思ったかもしれない。
とにかく普段と様子のちがう母を見て俺も動揺し、兄は怖い人になってしまい、俺は兄と口がきけなくなり、父は全く存在感がなかった。
後年、兄がひきこもった原因は父にあると思い(込み)、父を激しく責めたてることになるのだが、元をたどればこの日の出来事まで遡る。
過去回はこちらから
第13回「1988年、秋」
第12回「兄にお礼を言われた話」
第11回「兄と写生に出かけた話」
第10回「トランジスタラジオ」
第9回「母の介護と義父の介護」
第8回「調子に乗った話」
第7回「ドラえもんを求めて」
第6回「名ヶ山小学校」
第5回「主な登場人物の紹介」
第4回「母の趣味」
第3回「兄の近況」
第2回「大橋史信さん」
第1回「ごあいさつ」