第13回 1988年、秋
昭和天皇が入院されたが、年が明けて崩御されるとはまだ思っていなかった1988年の秋。俺は大学2年生で、それなりに毎日の生活を楽しみ、カラオケで「パラダイス銀河」を歌っていた頃、父から電話があった。もう正確には覚えていないが、「カツヒコ(兄の名前)が会社をやめて家から出なくなった」という内容のことを言った。その後俺がどう応えて電話を切ったかも覚えていない。聞いた瞬間は当然びっくりしたが、それと同時に「ついに来たか」という思いも頭をよぎった。なぜそう思ったかは次回以降に書くとして、とりあえず1988年当時の話。
俺は大学2年で浪人中の苦労も忘れて遊びに遊び、将来に対する不安も特になく、根拠もないのになんとなく自信だけはあった。その自信が父からの電話で揺らぎはじめた。
(1988年アメリカ映画、バリー・レヴィンソン監督)
年が明けて春休みに『レインマン』を見たのはよく覚えている。あちらは自閉症の兄と山っ気のある中古車ディーラーの弟。こちらはひきこもりの兄と今でも一山当てたいと思っている弟。映画自体はよかったが、「うちの場合は映画になるような話でもないしな・・・」と思った。一緒に見た人が泣きながら「お兄さんに会いたい」と言ってはくれたがとても会わせる気持ちにはなれなかったし、それ以前から兄とは会話ができなくなっていた。
当時はまだ「ひきこもり」という言葉は知らず、その言葉を知ったのは20世紀末に斎藤環氏の『社会的ひきこもり』という本を見つけてから。それまでは兄の状況をどう説明していいかわからず悩んでいたところもある。
父から聞いた瞬間、驚いたと同時に考えたことは「最終的に背負うのは弟のオレだな」ということ。父、母、兄、弟の4人家族なので(第5回参照)、自動的にそうなる。
そのうちなんとかなるだろう・・・とは当時から思えなかったのだが、ではどうしたらいいかというと何も思いつかず、ただ無為に時間だけが過ぎていった。
以来兄のことが常に頭の中のある部分を占め、何をしていても心からは楽しめなくなっていた。村社会に適応するためにつきあいで「恋人がサンタクロース」など歌ったりもしていたが、楽しいわけでもなく半ばヤケクソ。
翌年の夏に連続幼女誘拐殺人事件の犯人が逮捕されてからは、自分から兄の話をすることはほぼなくなった。ラジオの専門誌や漫画が積み上がっていた兄の部屋は(第10回参照)、ある時からエロ雑誌の山になっていて、その状況を誰かに見られたら「宮崎勤の地方版」などと言われかねないと思い、話せなくなっていた。一応兄の名誉のために言っておくと、兄はビデオデッキを所有していないしロリコンでもない。
兄が会社を辞めずに働き続けていれば、まだ他人に「地元で働いている」くらいの話はできたが、会社を辞めて家から出なくなってしまったのでその程度の説明もできない。「ひきこもり」という言葉もまだ知らなかったので、兄の状況を誤解のないように説明する能力もなく、黙っているしかなかった。そんな自分の非力さに苛立ちを感じながらも、何もできずにやり過ごしていたのが昭和から平成に移り変わる頃の俺だった。
過去回はこちらから
第12回「兄にお礼を言われた話」
第11回「兄と写生に出かけた話」
第10回「トランジスタラジオ」
第9回「母の介護と義父の介護」
第8回「調子に乗った話」
第7回「ドラえもんを求めて」
第6回「名ヶ山小学校」
第5回「主な登場人物の紹介」
第4回「母の趣味」
第3回「兄の近況」
第2回「大橋史信さん」
第1回「ごあいさつ」