第10回 トランジスタラジオ
前々回のブログで兄の中学生の頃の趣味について少し触れたが(第8回参照)、今回はそのことについて書いてみたい。
昭和34年生まれの兄が中学生の頃、トランジスタラジオを作るのが流行っていたようで、その中でも兄はかなりはまったクチでよく作っていた。兄の部屋はラジオの部品と工具が散らばっていて、雑誌『トランジスタ技術』と『CQ』が山積みになっていた。あと『少年マガジン』も。部品に触ると怒られるので俺は見ているだけだったが、はんだ付けなど集中してやっていた。
昭和48年の春休みに母、兄、俺の3人で横須賀の母の実家に遊びに行った時、上野で祖母と待ち合わせたのだが、兄は単独行動で秋葉原に行き、ラジオの部品や工具を買いに行った。残った3人は上野動物園で時間をつぶしたのだが、兄がいないので俺はつまらなくてふてくされていた記憶がある。
この頃感心したのが兄の手作りの部品ケースで、たしか厚手のケント紙をきれいに立てて箱を作っていた。これが何個か積み重なっていたのが美しく見えた。接着剤はのりだったか木工用ボンドだったか。俺も兄の歳になったら作れるようになりたいと思った。
中学3年になってもラジオ作りは続けていたので、今思えば呑気だったかもしれないが、父も母もそれを咎めることもなく兄のやりたいようにやらせていたような気がする。母は若干兄の進路を心配していて、「かっちゃん(兄の名前が克比古なので母はこう呼んでいた)は理数は得意だ、英語がだめだ」と、当時幼稚園児の俺に言っていた。俺はなんのことかわからなかったが、言葉だけは覚えている。弟のいないところで母は兄に「勉強しなさい」「受験どうすんの」などと言っていたかもしれないが、自分の欲望に忠実な兄は聞く耳を持たず、マイペースでラジオ作りに励んでいたように思う。
父も兄の学力や適性はわかっていて、5教科まんべんなく出来なければいけない普通科の高校に行く必要はないと思っていたのに、なぜか兄は無理目な普通科の進学校を受験してやはり落ちてしまうのだが、このことはその後の俺が進路を考える上でも大きく影響していて、正直心苦しい。俺は一浪して美大に進学したが、本当は職人に憧れていて大工か紙漉き職人になりたかったので、面白くもない受験勉強を無理に頑張って大学に進学する必要もなかったかもしれない・・・と考えることが今でもある。
このブログを書きながら『トランジスタ技術』と『CQ』をためしに検索してみたら、まだ発行されていて驚くと同時に当時の思い出が蘇り、ちょっとうれしくなった。ロゴも50年前と変わらないような気がする。ロゴが変わらない雑誌の方が長生きするのかもしれない。
過去回はこちらから
第9回「母の介護と義父の介護」
第8回「調子に乗った話」
第7回「ドラえもんを求めて」
第6回「名ヶ山小学校」
第5回「主な登場人物の紹介」
第4回「母の趣味」
第3回「兄の近況」
第2回「大橋史信さん」
第1回「ごあいさつ」